SSブログ

官僚や大組織が方向転換出来ずに突き進むのは何故か [政治経済]

きのう(5/22)の日経新聞朝刊をパラパラ見ていたら、経済欄の大機小機に面白い記事があった。

『無謬性の原則と全体主義』と題して、日本の政府、官僚組織や大企業などが無意識のうちに
無謬性の原則を前提にしている、としている。

つまり、「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」
という信念だ、と述べている。
例えばとして、政府は財政再建に責任があるのだから、それが失敗したときに起きる財政破綻後を考えない。
また、日銀は2%インフレ達成責任があるのだから、達成できなかった場合の出口戦略を考えてはならない。

組織というものは不思議なものだ。
当事者組織にいる一人一人は真面な考えを持っているはずなのに、いざ全体組織の中では無謬性によって
金縛りになったようにして一生懸命働く。

大企業の例でも最近の東芝が破綻寸前まで追い込まれたが、これも経営目標が達成されることが大前提になっており、
達成されなかったときのことは考えないことにしていた。
だから辻褄合わせを一生懸命したが、ついには行き詰ってしまったわけだ。

今回の財務省の騒動を見ても、結論が先にあり、それに如何に不整合が無いように合わせていくかが官僚組織の目的になってしまったのだろう。

このコラムでは、政治学者ハンナ・アーレントの全体主義の起源を紹介している。
「為政者の無謬性を求める人々の欲求が『無謬の為政者』すなわち独裁者をつくり出し、全体主義をもたらした。」
という趣旨の分析をしている。
市場競争にさらされた孤独な人々は、世間から見捨てられ忘れられたと感じ、心の拠り所をとして何か確かなものを求める。
だが、確かなもののない世界では、それは虚構のイデオロギーの無謬性しかない。
イデオロギーの無謬性の前提を一旦受け入れると、イデオロギーの論理に合わせて現実を作り替えることを拒否できなくなる。
アーレントは、
「全体主義国家が行った大虐殺や粛清は、為政者の無謬性という前提から演繹的論理によって強制されたものだった。」
という。

いつもフラフラと方針転換ばかりする組織も不安になるが、無謬であるべきとして方針転換出来ずに突き進む組織はもっと危険だ。
それは全体主義を生む不健全な考え方だ、ということを特に組織の長は肝に銘じておくべきだろう。

コラムの筆者は最後に、「自由な民主主義国家では、官僚は失敗するという可謬性を前提に政策を論じたい」としている。

1年先もよくわからない時代だからこそ、臨機応変に方向転換できる柔軟な組織にしておくことが求められる。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。